8月15日
入国したのは昨日である。時差ボケも残り体調万全とはいえないが天気を最優先として天に突き上げるマッターホルンへ向かう。
10:00 滞在期間中を通しておさえたアパートを後にする。外見は古い木造家屋でビックリしたがドアをあけると改装された近代的空間があり大満足である。まず初めのロープウェーでフーリー(
Furi: 1886m )へ。乗り換えてファーグ( Furgg: 2431m )、ゴンドラでシュワルツゼー(
Schwarzsee: 2582m )と高みに近づく。ここまで1時間。紫外線の強い青い空に4478mの岩の塊が文字通り突き上げている。新田次郎に「鎮座する巨人」と言わせたことに納得がいく。
前線基地ヘルンリ小屋まではハイキングコースであり高山植物に立ち止まりが多くなる。メンバーのお花解説を聞きながらゆっくり進む。ハーブの一種タイム(イブキジャコウ草)が赤い小さな花をつけていて軽く葉に触るだけで清涼感の強い香りが手に残る。
12:25 コース上に雪が出始める。今年は特に雪が多く先週もツェルマットの町で4cmの積雪があったという。見上げる斜面も本で見る夏のマッターホルンの山肌に比べはるかに白い。現在はガイド登山は見合わせていて夏山シーズンのマッターホルンというわけにはいかないようだ。
12:40 台地状に広がった部分でランチタイムを取る。町のパン屋さんで手に入れたサンドイッチはフランスパンの歯ごたえが味を更に美味しくしてくれる。
13:15 強い紫外線を感じるまぶしさに日焼け止めをもう一度塗って歩き出す。2時前にヘルンリ小屋(
3260m )に着きチェックインの始まる3時までベランダから明日のコースをイメージしてみる。東斜面を登っていくのだがいくつも取れそうなコースは迷いやすさを持っている。実際迷わずに正規ルートをたどることがいかに難しいか知ることになる。
相部屋で一泊33sfn(スイスフラン)、夕食は30sfn、朝食10sfnは朝4時からしか食べれないというので持込のアルファ化米を充てることにする。
水を持ってこなかったのは大失敗、1.5リットルで8sfnもする。ところが他の客が雨どいから落ちる水滴を集めているところを発見、彼が汲み終わったのを見届けたあと気長に水筒を握っていた。雪が屋根に残っていたからできたことである。
7時からの夕食はスープから始まるコース料理でメインはラムチョップだった。ビールの乾杯に続いてワインも4人でクイクイ飲んでしまう。ただ、明日の緊張からだろう、酔いはこない。起きてから出発までの準備に足を引っ張らないように割り当てられたボックスに装備をひろげる。
小屋では夕食後にテルモスを預けるとハーブティを入れてくれる。また、アルファ化米用のお湯も分けてくれた。
8月16日
01:45 2時にかけたアラームよりも先に目が覚めて準備を始める。寝室は2階でその他の客は4時起きなので荷物を1階の食堂に下ろして着替える。半袋ずつの配給アルファ化米をハーブティで流し込む。
02:51 月明かりの無い夜の世界に飛び込んだ。星がずっと近くに降りてきているような澄んだ空気のなかヘッドライトの明かりだけが岩が照らす。気温はキリッとしているがジャケット一枚で十分の寒さだ。昨日のリーダーの偵察で初めの赤い岩峰へはすんなり進んだが暗い中のルート探しは予想以上に時間を要してしまい思うように高度を稼げない。ライトはハロゲン球に換えたので明るい代わりに電池の消耗が激しく、空が明るくなるまでに2回も交換をすることになってしまった。
04:40 運動会の綱引きに使うような太い固定ロープが現れた。筋力保持のためにできるだけロープに頼らずに登っていく。下を覗くとランプが近づいてくる。小屋を4時に出発したパワープレイの外人勢にグングン追いつかれていたのであった。
06:30 朝日が自分達のいる東斜面を黄色に染め上げていく。今日一日の青空を約束してくれたかのように光が強くなる。雪の上を歩くことが多くなってきたので安全を優先させてアイゼンを履く。
07:32 4千メートルに建つソルベイ小屋を真上に見るようになると岩の角度が大きくなりロープを出す。プルージックの役目をする小道具を使って登るがホールドが多く確実に上がっていける。8時にソルベイ小屋に着いた。しかしこの時点で4時にヘルンリ小屋を出発した数パーティに抜かれていた。二人一組で登ることが基本となっているこの山で、4人で動くことは絶対的に時間を消費してしまう。
ソルベイ小屋以降はルートは1本になり迷うことは無い。しかしそれは大渋滞を引き起こすことになった。後ろから追い上げてくるパーティと下山してくるパーティが入り乱れ、どちらが先にルートを塞ぐかの駆け引きになり多くの場合一歩のストライドが大きな外人に軍配が上がってしまう。リーダーは2時をめどに山頂を考えていたようだが歩を進めることができない時間のほうが多くなり時計を見るたびに経過スピードが加速していく。
日が傾き東斜面が影に入ると気温がぐっと下がってきた。濡れた手袋が急に体温を奪い始める。このまま上に向かった場合どこで日が落ちるのかを考えるといい結果はでて来そうにない。トップはロープ一本分上部にいたがリーダーに戻りたいと意思を伝える。後に解ることだがトップを進んでいた仲間は山頂ビバークを念頭においていたという。明日の天気予報が思わしくなかったこの時点で僕はその選択肢を持っていなかった。しかし結果的には翌日に迎えた朝は何ひとつシミを作るものの無い快晴であった。
14:50 到達地点4200m。下山を開始する。しかし簡単に下れるルートではない。あいまいな一歩が千mの滑落につながりかねない。懸垂下降の繰り返しが続きだんだん気がめいってくる。ロープを出さずに降りることが多くなり20mほどの雪渓トラバースでは緊張が走る。繋がれている、という安心感が安全な行動を生むという基本を守ろうと後の反省点となる。
19:20 ソルベイ小屋に戻ってきた。上り6時間かかったところに下り4時間半を費やし距離の長さを実感する。日没が9時前後なのでとてもヘルンリ小屋までは明るいうちにはたどり着けないという判断によりここで夜を明かすことにする。荷物軽量化のために水・食料はギリギリしか持っていない。先陣が置いていったパンを消費期限を気にしながら食べる。下痢にならずに明日を迎えられたらよしとしよう。毛布は一人に一つ分けることが出来たが1つのマットレスに3人で横になりツェルトをかぶる。リーダーは緊張の連続を強いられていたのだろう、何を食べるわけでもなく座ったまま眠ってしまいそのまま長いすに横になって朝を迎えた。他に一組のカップル、計6人がソルベイ小屋への避難者となった。
8月17日
07:10 ソルベイ小屋から下に向かう。天気はすこぶる快晴、昨日の判断がよかったのか自分を責める。「上に行くかぁ」冗談のように言ったリーダーだが水が無いことが下に向かわせた。昨日暗い中上ってきたコースを確認しながら降りるが大分寄り道が多かったらしい。初めて見る部分も多い。
11:30 ヘルンリ小屋に戻る。快晴は続いており悔しさが隠せない。しかし自分がシャリバテになったときの状況を想像するに仕切りなおしが妥当だと自分で結論づける。各々がどうしたら山頂に立てるか、思案しながらツェルマットのアパートに戻ったのは4時を過ぎていた。