| 1999.9.29 | 1999.9.30 | 1999.10.1 | 1999.10.2 |
1999年9月29日
体が足りない、とはこういうことをいうのだろうか。大阪のホテルで朝を迎えたが今日は北アルプスへ旅立つ当日、その日なのである。午前中に病院に訪問、アポイントの時間よりも早くに用件に取り掛かる。隣駅が関西空港だというのに新大阪に向かった。次の飛行機を待つよりものぞみに飛び込んだほうが早いはずだ。幸いにも荷造りは済ませて自分の部屋に鎮座ましましている。まずはそのザックを引き連れてから新宿の会社に顔を出さないといけない。ほんとにそんな時間あるのか、おい。自分にきいてみる。とはいえとるべき、いや採ることのできる方法はそれしか思い浮かばなかった。乗り換えのたびに焦らせる時刻表に翻弄されながらも「のぞみ」に飛び込めた。関西空港の羽田行きは朝早くか夜遅く、いわゆる日中は極端に間があく。乗るはずだった飛行機が関西空港の離陸滑走路に向かい始めるころのぞみは東京駅に滑り込んでくれた。飛行機が羽田についてから新宿に向かうまでのタイムラグ、それが僕の山行準備タイムになる。最終チェックはのぞみの中で書き出してそれですべてが揃うはずと信じてザックの蓋を閉めた。いやいや、かなり肩に入り込む。酒を詰め込みすぎたか。でも酒のない涸沢キャンプ場はイメージできない。・・・・・・行ってまえっ!
これまでの山行ではバイクのセカンドシートにリュックを縦に立てていた。ちょうどキャリアバックを背もたれにして人形を乗せるかのように。でも今日はあまりに背が高すぎて安定しない。こんなに時間を欲っしているときにすり抜けの制限される横置きにするしかなく、余計な車幅を必要とするバイクになってしまった。それでも電車よりも早いはずなので首都高速四つ木インターに向けて暖気もほどほどに走り出した。
都庁の駐輪所にバイクを置いて会社に歩き始めた途端、それまでのあたふたさ加減を見ていたかのように携帯の鳴き声。なんと他のメンバーは車で新宿に到着したとの連絡。また駈け出して会社に戻る。6時半、もう秋の空は夜の顔になり、荷物をバイクから車に回収してくれたメンバーと合流、足早に高速4号線に乗り込み一路松本へ加速していった。これでよし、憧れの北アルプスの懐に抱かれに行こう。
後部座席に一人、うつらうつらとしていたようだ。ただ、時々意識が戻るといつもと違うタイヤの走行音が背中に響いてくる。「僕の車で出せる以上のスピードが出てる。」うつろな意識の中にもそのことだけは明確に情報として入ってくる。「寝ちゃお」それがわずかに考えられる僕の思考の答えだった。次に気づくと高速は降り、一般道を走っている。松本についたようだ。でも・・・まだ9時じゃないか。?????なぜ?新宿を7時前に出たばかりなのに・・そう、驚いたことにわずか2時間で新宿−松本間を走りきっていたのだ。なぜだかはドライバーに聞いて欲しい。明日の朝食を買って本日の宿“松本温泉”の駐車場に入った。インターネットで調べた24時間営業の温泉、仮眠室完備の豪華版である。まずは荷物を車に預けたまま温泉へ。Yシャツを脱ぎホリデーを迎える準備のひとつ、東京の垢落しをして、前祝を始めた。といっても企業戦士、21時40分担当施設の大阪の病院へ脱衣所から確認の電話をしていた。正式に開放されてザックの最終調整をし、隊装備を3人で分けて準備終了。今回は3日目に北穂東稜のゴジラの背を楽しもうとザイルを持参、テントは越山氏、MSRを2台とした火気を平山氏(以後、拓と呼ばせていただきます)、僕はそのザイルを隊装備とした。今までの山行で高価過ぎて手の出なかったアルファ化米も今回は奮発し行動食に登場している。十分過ぎる興奮の中仮眠室のリクライニングシートに横になり離れたシートから聞こえる鼾を数えていた。
1999年9月30日
肩をたたかれた。時計を見ると4時を過ぎたところだ。誰も目覚ましなるものを持っていないのに起きている。拓はリクライニングの絶妙な角度にゆっくり体を預けられず畳の部屋に移って休んでいたようだ。僕自身、リクライニングには慣れ親しんでいないのでどうも浅い眠りの中を行き来していたようである。といってももう寝る気はおきず朝風呂に向かい完全覚醒する。いままでの多くの山行で十分な睡眠を持ち合わせて初日を迎えられることはいくつかしか挙げられない。そのひとつをこの北アルプスに当てられたことだけでこれからの山に高鳴りを覚えていた。車を沢渡に向けている間に山の斜面に朝が降りてきていた。みるみる間にあたりの空気を目覚めさせ正視できないほどに斜面を光で埋めていく。「ついてる」何度も口に出しながら昨日買った菓子パンを牛乳で溶かしこむ。程なく沢渡の駐車場。駐車場として最も手前、つまりは乗合バスの始発の駐車場に到着した。7時の第1便を待っている間、自分に気力が充満してきているのがわかっていた。「まだまだ、焦るなよ」と、もう一人の自分に言い聞かせてみるもののどうにも効果がない。いつもは準備の遅い僕が隙間の時間を持てたので最後の仕上げに冷うどんをおなかに収めた。バスを待っていたはずなのにバスと同じ料金で相乗りを勧められたのであっさりついていってしまうことにした。ここのタクシーはそもそもトランクの上ブタを閉めようとは考えていないようで5つのザックを縦にトランクに立てると自転車のタイヤのチューブで蓋が持ち上がらないようにだけ押さえた。当然の知恵か。釜トンネルの前で開門時間まで30分の順番待ち。この間にドライバーさんに運賃を支払うしきたりができているらしい。そして1回目の開門の間に釜トンネルに入り込むことができ、まだ復旧中で路肩のなくなっている1車線区間をぬけ、7時15分上高地バスターミナルに足を踏み込んだ。正面には朝日を受けて深呼吸をしているかのような岩肌が鎮座し視界を塞ごうとしている。「ありがとう」これから楽しませてもらおうというのにまずお礼を言ってしまった。
山行初日、3人のザックはフル満載で急げ急げの距離稼ぎを予定している。一番欲張れたら槍岳山荘まで。でも途中にはいくつも山小屋がありテントサイトもあるので皆の体と相談しながら行くことを話し合っていた。バスターミナルの有料トイレで僕自身のウエイトを1kg?!落として7時25分、林道に歩を向けた。いくつのときだろう、ここ上高地には小学生のとき両親に連れてきてもらったことがある。もちろん今回のように僕自身が情報を集めて乗り込んできたわけではないので子供時代のひとつの思い出でしかないが、河童橋で写真を撮り、大正池でボートを借り、立ち枯れの木々の中を冒険気分で漕がせてもらった記憶がある。そしてはっきりと覚えているのは、目の前を流れている梓川の中にグレープフルーツを流されないようにと岩の隙間を見つけて沈め、キュンとのどが鳴るくらいに冷えたその一房一房を食べたことだ。立ち枯れの木の数がその記憶からは随分と減ってしまったこと、河童橋も架け替えをしたことなど時間の経過を感じながら、今度は僕が両親を招待して上高地散策でもしてみようかと孝行ネタも頭に浮かんできた。新しい河童橋で観光客よろしく記念撮影をし、トップの拓の広いストライドについていこうと競歩?のようなペースで進む。
歩きやすい林道で時間稼ぎをしようと3人とも狙いは同じだ。徳沢のグリーンに敷き詰められたテントサイトを見つけた時は1時間15分を経過していた。蛇口のように並べられたかわいい手漕ぎ井戸で水分を補給する。ここまでハイカットなのにローカットの高さまでしか結んでいなかったトレッキングシューズを今度は忘れずに靴紐を上まで締め上げ足の遊びを止めた。斜度が強くなりだすまでの沢道でコースタイムに比べてどれだけのマージンを稼げるか、で今日の幕営地が決まってくるように感じていた。越山氏もかなりのペースで飛ばしているのがわかる。40分後には横尾山荘前の広場で角度を高めつつある太陽のシャワーを浴びていた。10時15分ついに槍ヶ岳と御対面できた。槍見からの槍ヶ岳はまだまだ遠く小さくしか見えないが、これから僕がそれを見上げるところまで、いや見下ろすところまで近づいていこうとしている。聞こえるぐらいに胸が高鳴ってくる。槍見を抜け一ノ俣で沢をひとつ渡るとやっと山に近づいてきたらしく道に傾斜が出てきた。と、とたんに背中の荷物が気になりだした。それでもトップの越山氏はペースを落とさないように引っ張ってくれている。「まだ長いよ、後で燃料なくさないでよ」とつぶやいてみるが自分に当てはまりそうなのでエコノミーモードに変えていった。小屋泊まり組のディパック隊に追いつかれてしまい、何の抵抗もせずに(できずに、が正しい日本語か)パスしてもらう。エコノミーモードに体の各細胞がシフト完了したころに槍沢ロッジにつき昼食休止をとることにした。初日なのでいつもは持ち得ない"つぶれる系"の食料「パン」が入っている。拓もガス缶を用意して熱いコーヒーでも、とザックを探っていたが槍沢ロッジでは水が入手できなかった。外に並んだ水場は水栓を管理されているらしく干上がっている。ロッジ内のポスターを見ていると水場は先のババ平まで行くようにと指示してあった。僕の地図にも同じことが記されていたのでやけに納得して十分なすいぶん補給はお預けにした。
槍沢ロッジを後にしてババ平で塩ビ管から流れでる水を口に含む。どこの沢から水を引いているのか、かなり長距離を引いているような温かい水だった。水筒の水はぱっと見には満水ほど入っているので補給はせず塩ビ管から直接その場で必要な分だけの水分を取った。20分ほど登り右壁から流れ落ちてくる沢にもお世話になる。先ほどとはがらりと水温が変わり最高の冷水になっている。やはり山の水はこうでなくては。まわりは高度を稼いでいる風景に変わってきているがその爽快感とは裏腹に僕の体には変な音がきしみ出してきた。どうしたのか、いつもの超越感に浸れないでいる。これまではつらさを感じ出すのとほぼ同時に脳内モルヒネ"エンドルフィン"が出てきていた。見たことがあるわけではないけれど体から"待ってました"とばかりに放出が始まっていく気がしていた。それが今日は染み出して来ない。寝すぎたかな?体との相談を始めるためにここからはエネルギー補給を積極的にすることに作戦変更する。ザックも重く感じ出してきてしまった。ウィダーインゼリーでカロリ−メイトを胃袋に収める。大曲を過ぎ、もうひとつのしっかりした沢の通過点でもザックを下ろして休ませてもらう。越山氏は休みが早すぎたのか昼寝を始めてしまった。申し訳ない、もう少しで消化したカロリーメイトに火がつくはずだから。。。今までの山行では全工程で摂取するくらいの水をとり血を薄めた。山行メモにはこう記している。
かなりきつい、エネルギー不足か。目がまわる。いかん、水があるので少し贅沢して飲もう。
20分休んで出発、人の高さ以上ある大きな岩に「天狗コース右」の矢印がある。向かうコースと違うほうだ。ここが分岐?それにしては踏み後がうすい。地図を改めて見る。これは天狗コースとの分岐をしばらく入ってから現れる岩だ。どこが分岐だったのだろう。しばらく3人で頭をくっつけるが分岐点は思い出せない。ただ、快晴であるので右の斜面にしっかりとしたルートが見えている。しかも今しがた追いついた花を撮影している男性もはっきり見える。伏流となった広い沢をつめるような踏み後をたどり右のコースに戻ることにして歩き出す。これまでの踏み固められたルートから一転しまだ居場所が定まっていない岩たちで足元が右へ左へと定まらない、これでは距離は短くても時間は倍かかる、と思い早めに右へ斜面を横切り、水が顔を出した細い流れを渡りルートに戻った。拓はもっとあがってからコースに戻れないかと涸れた沢を登っていたが、その上の斜度が勢いよく強くなっていることを確認したところで右へ流れてきた。正規ルートを登ってきた男性に迎えられる。「氷河公園にいくのかと思いながら見ていましたよ。下で沢と合流していたでしょ、あの沢をちょっとあがると道標があったんですよ」なんともお恥ずかしい、その一歩をあがらなかったためのミスルートであった。3人が再び山道に集合したとき時計は14時半になっていたが、コースタイムからは槍岳山荘まで十分に明るいうちに到着できる。またこのちょっとした緊張で僕の体にもエンドルフィンが流れだした。つづら折れのルートを前にすこぶる気持ちがいい。坊主岩を覗き込み、はるか上に殺生の分岐であろう道標が見える道をスピードはでないが確実に歩んでいく。夕方になりガスが出始めたがまさに槍ヶ岳を下から仰ぎ見るコースに酔っていた。殺生の分岐を過ぎ最後の槍岳山荘への上りを詰めるころにはますますガスが濃くなり槍ヶ岳の姿も隠れることのほうが多くなってしまったが"明日のご来光頼むぞ"と槍ヶ岳に話し掛けながら足を引き上げていった。コース上の岩には槍岳山荘までの距離がカウントダウンで刻まれている。あと200、150、100m。槍ヶ岳山頂までの距離ではなく山荘までの距離というのが、商売上手だな。とやけにおかしく頭の中を通り過ぎていった。さぁビールタイムだ。
幕営料を払いサイトに向かう。細かくサイトわけがされており一つ一つはテントの大きさきっかりのような区画、さらに列毎に段になっており山間部の段段畑のようである。もしも幕営パーティーが多かったら気後れしてしまいそうだ。幸いにもテント組は僕らを含めて3組、その後暗くなってから1パーティーがテントを張っていたがテントを中心とした9区画は僕らの使用に供してよさそうだ。越山氏のゴアライト3人用を広げ前室のあるオプションタープで覆う。なるほどぐっと居住性が増して快適なテントだ。さらにザックをしまう物置としてツェルトを横に並べ頭で描いていた住居が完成、これでテントには寝ることに必要なものだけを入れればよいことになり男3人でも十分なスペースが出来上がった。実はさらにもう一品、住にまつわる道具がある。タ−プである。拓が念願としていた「涸沢でタ−プを張る輩」を実現すべく持ってきている。この槍岳山荘サイトでは話題性に難ありとして明日まで登場を待ってもらうことにする。今夜の食当は僕になっている。α化米は使わず普通の米粒を砥いで30分放置、その間に乾燥海藻を戻しシーチキンフレークを合わせツマミ兼副食とした。お米をMSRのドラゴンフライにかける。このドラゴンフライ、米炊きには1stチョイスである。ガソリンストーブでありながら弱火、とろ火に絶対の自信を持っている。仕舞い寸法がウイスパーライトに比べると大きいがそれをカバーする積載能力を持つ拓はおいしいご飯を食べるためにドラゴンフライを必ず個人装備として忘れない。わかめをまぶし混ぜご飯にして祝杯をあげる、といってもすでに3本ほど缶ビールは空になっている。越山氏は体温が下がってしまったようで早めにテントの中にはいった。さてウイスキータイム開始。のはずなのに拓からいつもの相づちが帰ってこない。彼は下界でつかまった風邪を3000mまで持ち上げてしまったようだ。僕の持っていた総合感冒薬を飲んでダウンしてもらう。明日涸沢で付き合ってもらうぞ!天気はなおもガスがはり星空を見上げながらの一杯とはいかなかったが、そのカップに入った一杯を3000mの静寂のなかで傾け、明日のご来光をお願いしていた。
1999年10月1日
浅い眠りだ。何度も目がさめ、枕にしている衣類をつめたビニールの音が気になる。時計を見たのは1時半、うつらうつらで4時になる。(山行メモより)
誰が最初に声をあげたのかは覚えていないが別に眠い目をこするわけでもなく4時に起きあがった。フライシートが雨に打たれている。それでも山頂では一瞬の芸術を見せてくれることは何度も経験しているので出発の準備を始めた。靴をつっかけて外に出ると雨は小康状態となり水分の多いガスが立ち込めていた。雨具を着て槍ヶ岳に向かう。見えるものはヘッドランプの明かりが届く範囲だけで昨日歩いた山荘の前の道も間違えそうになる。また雨が落ちだし音を立て始める。山荘の雨どいからは勢いよく広い屋根から集められた雨水が噴き出してきた。山頂へのピストンコースは取り付きでペイントまでライトが届かず3人で分かれようとしたがよく踏まれた地面が視界に入ったのでそのままピストンコースに招待された。岩場であるが何万人という観光客が踏みしめているのであるから非常に安定していて浮石には出会わなかった。ペイントは非常に細かい感覚で丸印が書かれてありそれに従っていく。時々×印や下りコースを示すものが目に入る。なるほど一方通行か、それでも人がたくさんいたら渋滞するのだろう。この雨の中まだ誰にもあっていない。30分かからずにはしごの上に広がる8畳ほどのテーブルの上についた。
これが槍ヶ岳。昨日槍見から遠景で捕らえた槍ヶ岳の一番とがった点についた。雨混じりの真っ白に囲まれた空間だが達成感を味わっていた。あとは突然このガスが吹き流れ東の空が忽然と視界に現れるのを待つことにした。磁石で東を確かめる。風は西から斜面を駆け上がり僕のジャケットを捲り上げようとしていた。この風がご来光とどんな関係があるのか知らないが少なくとも空気は動いている。ご来光を見たい、この槍ヶ岳から。
後5分であきらめよう、もう日はあがっているはずだよ。と越山氏に声をかけられる。まわりのガスが光を受けた白色を発しだした。たしかに、認めざる得ない。5時50分、はしごに手をかけ自分の標高を下げ始めた。ものの10分で槍岳山荘に戻り水を1リットル200円で買う。有料であることを知っていたなら昨日の沢で空の水筒をそのままにしなかったのだが情報が不足していた。結局10月1日のご来光時間に槍ヶ岳に登頂したのは僕らだけだった。これだけガスがはっていればそうそう行かないか。
マカロニを茹で、水煮缶の鳥ささみをからめ、カップスープを水分少なめでとろみを効かせて朝食とする。すぐにエネルギーに転化してくれる気がする。まだ霧がまわりを取り囲んでいるので温かさそのものがとても幸せな気分にさせてくれる。霧は少しづつ薄くなってきてくれているらしい。そのまま太陽を覗かせてくれ、と口の中でぼそぼそいいながら出発準備を始めテントを撤収、昨日のセットはとっても成功だ。居住性ばっちり、保管性も申し分ない。初日で食料がなくなったのでテントのフライセットを譲りうける。それでも体感的には軽くなった。8時前にテンバを振り返り忘れ物チェック、そして北穂高にむけて歩き出した。くだり気味の稜線歩きで程なく中岳に到着、つづけて南岳を通過し山頂にたつが霧が濃くなり気が納まらないので南岳小屋まで進んでしまう。とはいえ視界は悪く南岳小屋の赤い屋根が判別つくようになったのは残り50mほどまで近づいたてからであった。小屋の中には入らず倉庫前のコンクリートをうってある平らなところで休憩。カロリーメイトを補給するが標高差は激しくないので体はかなり安定している。
白い中に岩だけが視界に入りただ進む。瞬間的に太陽のまばゆさが差し込む。きっと姿を見せてくれる、そう信じながら一歩を踏み出す。(山行メモより)
これからは本日のメインディシュとなる。どこが最低鞍部なのか自信を持てないまま大キレットに近づいていく。これが快晴の中だったらどんな景色なのだろう、想像ばかりが先行する。いくら雑誌の写真で見てもそこに立って自分の目に写りこむ景色は違う。両側に切れ落ちた岩をまたぎながら、3000mで感じる空中散歩を頭に描くがやっぱり細部があやふやになってしまう。もう一度来よう、こなきゃ。A沢のコルを目指している最中に再び来ることを考えていた。A沢のコルと思って休みを取るが歩き出してすぐに「A沢のコル」と書かれた看板にたどり着く。これで現在地が確認できた。しかし大キレットは過ぎてしまっている。強い認識がないまま通過してしまったのか。次に現れる「飛騨泣き」は逃すまいと切立った岩場はみな飛騨なきだと口に出しながら進んでいった。岩場が落ち着き山の腹を沿うようになると“北ホまで200m”と白いペイントで書かれた岩があり、縦走の終わりを示してくれた。
北穂高小屋では靴を脱いで食堂のテーブルに座りゆっくりと昼休みを取ることにした。1時間以上休んで夜の宴、涸沢に向かって下山しようとしたところ雨が本降りとなってきた。今まで霧でぬれてはいたけど本降りの中を歩いていたわけではなかったのでその雨音を前にして行き消沈、残す予定は下山だけなのでもう一度山荘の中に入り食べなおす。拓はスパゲティを、越山氏はぜんざいを注文した。僕らのテーブルは壁際だったがその壁にはこの小屋の歴史が記されていた。
小屋に入る。靴を脱いで木のテーブルへ。晴れていたら見えていたであろう穂高の写真が壁を埋めている。テーブルは長年の使用から生まれるつやに染められ深い茶色が今までの外界との差をより強く感じさせる。年表からこのテーブルが69年製であることを知る。僕らより年上なんだ。13:30に出発しようとしたら強く降り出したのでメゲて再休憩。波は越えたのでのんびり下ろう。(山行メモより)
15:00になり体は十分に休んだ。もうこれ以上の休憩は体を寝むりに誘うだけの休憩にしかならない。僕らには念願の涸沢でのキャンプが待っている。根のはえそうな腰を挙げ出発準備をする。靴紐をいつも以上に下り専用に足首からうえを締め込む。雨は小降りとなったとはいえ今だ落ちてきている。レインウエアを履き、ジャケットのレインハットを装着する。完全な雨仕様となったが長い休みのおかげで苦痛は少ない。山小屋では今日我慢すれば明日は快晴を期待できるとの言葉も聞けた。明日の北穂東稜に期待をかけて涸沢に向けて下りだした。岩の間を降りていく登山道はちょうど良くすべるうっすらと水を含んだ色をしていた。3番手を下っていくがこの石の色には注意して降りないとな。とひとりごといいながら足を進めていた。つづら折れの道を降りながら霧の中に見えるはずのキャンプ場を描いていた。そのときだった、突然視線が空にそれた。とっさに腹ばいになろうと体を反転させる。そのとき視野に写ったのは背が届かない落差を持つ岩の側壁だった。そして、自分でも覚えている、プチッと確かな音がして記憶の回路が切れた。次に記憶のスイッチが入ったのは今まで見ていたのと違う景色だった。さっきと似ている岩達が周りにいるけど前にいた二人が見えない。霧に包まれ見渡せる範囲は狭いがその中にひとが存在する雰囲気が薄い。なぜだろう、あんなにはっきりした登山道を降りていたのに。と、頭上の霧の中から僕を呼ぶ声がする。「おーい」と答えたもののなぜ僕が霧の中から呼ばれなくてはいけないのかが理解できない。雨粒を含んだような重いガスが流れてきたので左手で顔を拭った。するとこめかみの皮膚が手のひらと一緒に動いてきた。最初の衝撃だった。いつも手の動きに反して顔の水を手のひらに預けるはずの皮膚が手と一緒に動いている。慌てて左手に視線を向けた。その手のひらには血のりが広がりとてもビビットな、まさに体から吹き出たような赤だった。「落ちたんだ。あの最後の映像からここまでの間に仲間は霧で塞がれるほど離れてしまったのか」やっと状況を認識し始めた。「そして血で顔が染まっているのか」そこまで思考回路がたどり着くと、とたんに恐怖がとりついて来た。寒気が走りすぐに全身が覆われ歯が上下に音を出して鳴り始める。頼んでもいないのに音は大きくなり視野がぶれだした。危険を認知したのか腕が動き出しジャケットのファスナーを首まで一杯に引き上げた。あと何ができる?細胞が聞いてくるようだ。もう着込める物は着ている。これで行くしかないよ。脳細胞から直接訴える。さっきまで上半身を起こしていたがファスナーを上げるために斜面に上体を預けたらそれっきり起きあがることが不可能になってしまった。腰に痛みがはしる。腹筋に意識をむけるとそこも痛みで占領されていた。なぜ?表も裏もたたきつけられてしまったのか。霧の空から僕を呼びつづけてくれる越山氏の声が聞こえる。
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「おお、ここで止まってたか」次に意識が再び表面に浮き上がってきたときに聴覚に認識された言葉だった。視界には越山氏ではなく拓でもない、ひげを蓄えた男性が写りこんできた。もう一人いる。誰だろう。少なくとももう一度僕を下に引きずり落とす人ではないようだ。一通り質問に答える。左足が痛い。無線で状況を伝えている。生存と言っている。僕のことか?越山氏が二人の後ろにいることを確認した。救助されているのか。やっと凡人の思考になってきたようだ。僕の止まっていた場所から登山道まで移動するという。ひげの男性の背中に負ぶさる。強烈な痛みが肋骨に走る。これまで経験した痛みと別物だ。一体どうするとこんな痛みが発生するんだ。彼の一歩一歩の歩みがダイレクトに腹部に伝わり内臓を押し上げる。さすがに我慢のがの字が効かない。声になってしまう。それでも彼をロープでつないで確保してくれているもう一人の男性の励ましに「降ろしてくれ」の一言までは飲み込んだ。どうやら目的の場所まで運んでもらえたようだ。ここで処置を始めた。ガーゼを左のこめかみに当てている。やっぱりそこが切れているのか。おや、そこだけじゃないらしい。頭の中までガーゼを押し当てている。そして包帯が顔全体に巻きつき出す。そんなにグルグルまきが必要なの?すべての質問は自分の中だけに発せられる。そしてひととおり終わったのかまた無線になにかしゃべっている。なにもしゃべれない自分がいた。
「今日はヘリコプターは飛べないのでここでビバークしてください、明日朝6時にヘリがきて救助を開始します。」僕だけじゃなく越山氏にも説明しているようだ。「明日朝にヘリコプターが来るからそれまで我慢、大丈夫だね」今度は僕に話し掛けてくれているようだ。今日にしてくれ、と言ったところでその選択肢はない。大丈夫です。としか答えることのできない質問だった。ただ体は寒気を感じることはなく痛みの程度は予想していたよりも強くなかったので少しの自信を伴った返答だった。滑落が止まった地点から僕のザックは数メートル上にいたらしい。ぎりぎりまで僕の後頭部を守ってくれていたようだ。そのザックからツェルトを出しシュラフを越山氏が準備してくれている。僕はほとんど首が回らない頭を少し傾け礼を言うのが精一杯だった。着替えまでさせてくれた。締め付けられていた緊張が解け呼吸が楽になる。自分ではおしりをずらすことしかできずシュラフに入れてもらう。これから痛みが襲ってくるのでろう、その恐怖から少しでも逃れようといため止めを飲むために何か胃に入れる必要があった。越山氏に行動食をねだり口に運んでもらう。今朝用意した行動食α化米を全て食べ、アクエリアスを飲ませてもらい落ち着いてきた。越山氏はまるで餌を与える親鳥のように何度も何度も僕の口に食料を運んでくれる。薬を飲み、あとは痛みを待つだけだ。外の明るさが弱くなってくる。夜が近づいて来ているようだ。明日、この霧が晴れてくれる事を祈って意識を薄くしていくことに集中した。次に写った映像、あたりは暗いが風が強く吹きつけていてツェルトがその形を保てないほどに変形している。自分は寝返りさえ打てない。ただたわみ、ばたつく天井を形作るツェルトの動きを見るしかできない。ポールが倒れなければいいが。いや、いまできることは倒れないでくれと頼むしかない。越山氏の眠りも浅いようで寝つかれない体の動きを感じる。涸沢でのパーティーのはずがこんな岩稜帯で寝かせることになってしまった。
1999年10月2日
何度目かの意識の薄まりのなか、外から声が聞こえてきた。昨日応急処置を施してくれた山小屋の主人たちだ。あとで聞いた事だが彼らは北穂小屋のマスターとスタッフの方だった。外は明るく、太陽の存在を感じることができる。救出の準備で越山氏が撤収を開始している。ツェルトが取り払われ僕の限られた視野が真っ青に抜ける空に変わった。すばらしい朝の中に居る。ザックへのつめこみが終わりヘリを待つ。本当に6時きっかりにヘリの独特な羽ばたきの音が近づいてきた。ところが僕の居る場所が風の通り道らしい。無線には「たたきつけられそうです、場所の移動はできませんか」とヘリからのメッセージが聞こえる。「動かすのは難しいです、ここから何とかお願いできませんか」無線に返している。ネットが落とされた。動物を捕獲するときに使うようなマス目が15cm角ほどありそうなロープネットだった。僕は担架に乗せかえられネットの中央に、越山氏はサイドのネットの上に立ち、ハーネスで確保点をヘリから下ろされたアンカーに取る。吊り下げられた。衝撃もなく空中に持ち上げられ高みに移動していく。初めはロープのよじれからかくるりくるりと回っている。真上を見ている僕から見えるのはネットの先にあるヘリの機体下部とその裏に一色に塗られた青い空であった。顔までシュラフカバーがかけられていたので慌てて、でも動作はぎこちなく手で引き下ろし、制限された可動範囲一杯に首を回した。視界に入ってきたのは朝やけに染まる穂高の峰であった。こんな空中から穂高の朝を見れるなんてそんなに多くの人は経験しないよな。そりゃそうだろう。越山氏もその神々しさに引きこまれているようだ。そう、ここは神降地と書かれた時代があると何かで読んだことがある。
吊り下げられたまま涸沢キャンプ上の開けたところまで運び、いったん下ろした。そこで解かれ今度は機体の中に運ばれた。体が棒状に伸びているので後部座席は僕だけで一杯になってしまう。見た目よりもコンパクトな内部だ。足をまげて何とか収まった。そして助手席に乗り込んでくれたのは昨日誰よりも先にこの事故を山荘へ伝え、救助活動の連絡を指示してくれた拓だった。動きにくい体だったが右手を前に出す。彼がこっちを見てくれている「ごめん、わるかったな。」そのときに言葉にできる精一杯のわびの気持ちだった。「生きてりゃいいんだよ」包帯でほとんど埋められた僕の顔をみてから拓は涙も隠さずにそう言ってくれた。僕から一方的にスケジュールをかき乱してしまったのに、その救助ヘリの動きを涸沢から見つめてくれていた。月並みだが友人のありがたさを再認識した瞬間だった。程なくヘリは豊科の開けた土地に着陸し、開かれたドアの向こうには救急車が後ろのゲートを開け放して迎えてくれていた。
病院につくまでの間、救急車の中では稜線での応急処置のテープをはがしてくれたがきつく着き過ぎてはずれないものもあった。ストレッチャーが病院の中を動き回る。頭部CTを取り、痛みの自覚症状のある部分はX線写真に収めた。そして手術台にあがる。当直で待機してくださっていたのは耳鼻科の女医さんだった。1つ1つは大きくないが頭と顔に多数の切り傷が散らばっているらしい。根気よく長時間プツリプツリと縫い上げてくれている。この細かさは耳鼻科の先生ならではの緻密さだったと思う。縫い終わったかと思うとまた髪の毛に隠れた傷口が見つかるというのが繰り返される「あー、またあったぁ」という声、投げ出さないでよろしくお願いします。やっと落ち着いた頃、「あ、全部黒い糸で縫っちゃった」と女医さん。髪の毛と区別がつきにくく、抜糸が難しくなるらしい。とはいえ今さら…。
縫合しているうちに通常の診療時間が始まったらしく女医さんは外来へ。その代わりに脳神経外科の先生が現れ、目から2cm(ぐらい近くに感じた)のところでVサインして「何本ですか?」僕「2本」、もう1本増えて「何本ですか?」僕「3本」、「今日は何日?」僕「10月1日…」、「???落ちてからのこと考えて」僕「一晩ビバークしたから10月2日」「その通り」、この会話の後CTを眺めて「脳みそだけなら今からでも山に行けます」はぁ、ありがとうございます。どうやら頭は生きていたらしい。
続いて整形外科の先生が骨折の状態を見に来てくれる。ところが手にしたX線写真には骨折が見つけられない。そんなはずはない、と先生と僕の二人で骨折探し。僕「この肋骨、きっと折れてますよ」「いや、骨には異常ない」、僕「腰がかなり痛いです」「いや、打撲だけ」、僕「左の脛、血が出ていました」「うん、深い傷だけど骨膜で止まってる」…「50m滑落してひとつも骨が折れていないなんて、それじゃ神様、差をつけ過ぎだよ」そんなこといわれてなぜか僕が悪者みたい。僕「膝はどうですか、左の膝」しばし写真を見つめ「あった!ひびが入ってる!」なぜか両者ほっとする。ひびを見つけて安心するなんて初めての体験だ(当たり前か)。でもギブスをするわけでもなくテーピングで終わり。
一連の診察が終わり女医さんの外来が終わるまで安静にすることになった。結局、顔と頭を複数箇所切り50針以上の縫合となったが、そのほかは全身打撲だけで骨折はなく、脳内も血腫等なく異常なし。
天井を眺めていると「何か食べれる?」と声がする。塩見さんが隣に来てくれている。恐らくもっと食べているのだろうがバナナといなり寿司をお願いしたことを覚えている。僕のたった1歩のミスジャッジがこんなにも多くの友人、先輩方を巻き込んでしまったのだ。拓の通報により土川さん、中村さんそして塩見さんが現地に足を運んでくれた。みなそれぞれに計画を立てていたであろう連休にこんなことに時間を使わせてしまったことがとても心苦しかった。
幸か不幸か入院はせずに当日の退院許可がおり越山さんの車で皆と一緒に帰れることになった。セカンドシートを倒し寝たまま運んでもらうことになったが顔中包帯を巻いたその姿はミイラ搬送のようにしか見えない。
明るく照らされた中央高速は渋滞もなく東京に向かい、この山行は終焉を迎えた。しかし迷惑をかけるだけかけてしまったこの時間は戻らない。この山で教えられたことを次にいかすことはもちろん、どれだけ返していけるか、自分なりの表現を考えていきたい。